三方原の戦いを(ちょっとだけ)学ぶ

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皆さんこんにちは、シンです。

昨日は午前中に遠鉄奥山線の廃線跡を巡っていましたが、午後は地元の研修センターで三方原の戦いに関する講演会を聴講してきました。

体を使った後に頭を使う、体育で水泳をした後の授業みたいなもので、非常にタフな戦いでした笑

【初めてこの施設に入ります】

【仏坂の戦い?はて?】

三方原の戦いは戦国〜江戸時代においてトップ10に入る有名な合戦だと思っています。
それは私が徳川家康推しだからですけどね。

この三方原の戦いは、戦国時代の最終的勝者である徳川家康がボロクソな大敗を喫した戦いです。

武田軍の鬼の猛攻になす術なく、恐怖のあまり脱糞しながら家康は逃げたとか。
小豆餅と銭取の逸話は昨日書いた通りです。

でも正直三方原の戦いと言っても詳しくは知らないんですよね。
なのでせっかくの機会だから、ということでこの講演を聴講した訳です。

【意外と立派な会場】

席は8割程度埋まっていたでしょうか。
なかなかの人気です。

講師は「一言坂の戦い」の著者・岡部英一さん。
学者ではありませんが、地元の郷土史を調べて本を書かれている方です。
講演は今までの定説にこの方が想像する内容を絡めて進められました。

要約すると、

  • 一言坂の戦い(初耳です)で勝利した武田軍が二手に分かれ、一手(武田勝頼)は二俣城攻略に向かい、もう一手(信玄本隊)は浜松の家康本隊を牽制していた
  • 徳川方の国衆(山家三人衆)を調略して味方にし、武田軍最強の山県昌景隊と共に奥三河から伊平・井伊谷に侵攻した(仏坂の戦い)
  • 家康は伊平・井伊谷に援軍を送りたかったが、牽制している信玄本隊に背後を突かれては壊滅するため伊平・井伊谷を見殺しにするしかなかった
  • 家康にとって恥辱に満ちた戦いの連続で、負けを覚悟で最後に武士の意地を見せた、もしくは先手を取れば勝機があると考え出向いた、それが三方原の戦いである

と言ったところです。

数的優位な上、数多の戦で鍛え抜かれた戦国最強軍団、いくら地の利があると言っても敵うわけがありません。

頼りにしていた織田援軍は少数で、しかも開戦早々に撤退。
よく家康が生き延びれたと思います。

しかし三方原の戦いは一方的なワンサイドゲームかと思いきや、徳川最強の本多(平八郎)忠勝と榊原康政があの山県昌景を押し込む健闘があったようです。

「家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八」

唐の頭とは南蛮渡来の装飾が施された兜のことです。
この言葉は家康を小馬鹿にしつつも、一言坂の戦いで殿を務め、奮戦した本多忠勝を讃えたものです。
敵にも認められる本多忠勝はやはりすごかったのでしょうね。

このあたりの話が来年の大河ドラマ「どうする家康」でどのように表現されるのか、とても楽しみです。

ちなみに本多忠勝の娘の小松姫は真田信繁(幸村)の兄、真田信之の元に嫁ぎ、その縁あって信之は父・弟と袂を分ち、徳川方につくことで幕末まで家を存続させることができました。

このあたりにも実は本多忠勝が戦好きのただの武人ではない、人間味あふれるエピソードがあったりするんですよね。

 

講演を聴き終えて会場を出ると、秋の夕暮れ前のキレイな空と山。

【キレイな景色だ】

今聴いた話はちょうど450年前にここで起きてたことなんだな、と思うとこの景色も感慨深いものがあります。

 

最後にちょっと気になったことが。
講演の中で登場した武田軍の侵攻の流れです。

【武田本隊は海に沿って進んでいたみたい】

最短で浜松方面に向かうのであれば藤枝の次は掛川ですが、御前崎方面に迂回して磐田に向かっています。

余命幾許もない武田信玄なら最短ルートで行くのかと思いきや遠回りしてるんですよね。

これについては翌日身をもって体験することができました。
と含みを持たせてこの話は終わりにしますね。

それでは皆さん、Have a nice day !