【史跡】浜松は出世城なり初ガツオ

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皆さんこんにちは、シンです。
昨日の記事の続きです。

昨日の記事の最後の写真を撮影した葵広場、そこは元城小学校がありました。
元城小学校は明治6年に第一番小学校として開校した浜松で最も歴史ある小学校でした。
しかし都市部の空洞化により生徒数が激減し、近隣小中学校と統合(小中一貫校)されて元城小学校は廃校となりました。
寂しいものです。

元城小学校跡地から市役所北側一帯に二の丸がありました。
結構な広さですが三の丸は二の丸の3倍くらい広いので、実は浜松城ってかなり広い城なんです。

今は一段下がったようなこの通路も、昔は本丸だったと思われます。

この辺りに鉄門があり、鉄門をくぐると本丸です。

本丸跡地には神君・徳川家康公の像があります。
岡崎、静岡と違って若き日の家康公というのが浜松らしさです。

正面、右側、左側、どのアングルの家康公が好みでしょうか。

本丸跡地より高い場所に天守門があります。
浜松城は本丸に天守閣はなく、本丸から独立した天守曲輪というものが存在します。

江戸城や熊本城のように美しい切石で積み上げた石垣ではなく、自然石を積み上げた野面積みが特徴です。
そんな石垣の上には誇らしげに三つ葉葵の旗印。

¥200払って天守閣に入場します。
大河ドラマの際にキレイにしましたね。

入ってすぐに順路は地下を案内します。
ここには井戸があります。
籠城で大切なのは食料の確保と水。
天守閣に井戸があれば、最後の最後まで水が確保できます。

想定される天守閣のサイズはかなりの大きさですね。
本当にそのサイズなら大迫力です。

家康公の若かりし日の甲冑(左)と貫禄たっぷりの最後の頃の甲冑(右)
もちろん複製ではありますがカッコいいです。

多分若かりし日の家康公。
三方原の戦いでボロ負けを喫した時ですね。

3階に上がると天井には歴代城主の家紋が描かれています。
昔はこんなのなかったのに、だいぶゴージャスな演出をしましたね。

天守閣最上階からの眺め。
さっきはその市役所の屋上から撮影しました。
奥には表現しにくい色のアクトタワー。

浜松城南側の景色です。

お城から出たら北側広場のところにあるスターバックスで昼食。
私が一番好きなスタバです。

きのこクリームのチキン&モッツァレラ石窯フィローネ。
購入するときはこれで足りるかな?と不安になりますが、実際食べてみるとボリュームがあり、しっかり咀嚼しないと飲み込めません。
噛まずに飲み込む癖のある私(牛丼とテールスープの区別がつかない人間)にとっては、こういう食事のほうが健康的かもしれません。

食事を終えたら浜松城公園から北東へ移動、浜松八幡宮へ。
浜松城から鬼門の方角に武家が盛んに信仰していた八幡神を祀ったのは源氏の慣わしでしょうか。

石造りの大きな鳥居が出迎えてくれます。

お手水。

狛犬。

そして拝殿

境内には「濵松名稱起源颯々之松」と書かれた石碑があります。

浜松という地名の名称起源となった颯々(さざんさ)の松らしいです。
どうやら白狐が浜から松の苗を持ってきて、この地に植えたら繁茂したので「浜の松」で浜松と。
颯々(さざんさ)は松の葉が風に吹かれる音を意味します。

こちらは御神木の雲立楠。
三方原の戦いで敗走した家康公がこの楠の洞穴で身を潜めて難を逃れたとか。
そして雲が立ち、家康公を浜松城まで導いたという伝説があるようです。

これが今回最後の写真。

「はま松は出世城なり初松魚(はつがつお)」
と書かれています。

明治大正期の浜松の俳人、松島十湖の句です。

江戸時代において浜松城は嘱望された人材が城主となり、その後幕府要職に就くことが多かった事から「出世城」と呼ばれています。
もちろんそれは家康公がここ浜松から大大名に花開いたことからげんを担いだのでしょう。
でも出世城と呼び始めたのはこの句が詠まれた後からだそうです。

この句の意味は「初鰹のおいしい季節になった。庶民でもこうして食べられるのは立派な領主様のおかげだ」ということらしいですね。
この句を知ってカツオが食べたくなりました。

撮影メインと言っても結局歴史探訪となってしまいました。
それでも楽しく撮影できたので良しとしましょう。
そしてその足に電動アシスト自転車の Daytona DE01 が大活躍、ポタリングには最強ですね。

今回昼食代を除けばかかった費用は浜松城入場の¥200だけ。
写真撮影で過ごす休日、実はローコストな過ごし方、なのかもしれません ←初期投資をすでに忘れてる

それでは皆さん、Have a nice day !