【スーパーカブ】初ツーリングは本田宗一郎ゆかりの地巡り

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こんにちは、シンです。

それでは昨日のスーパーカブ50納車からのプチツーリングの様子をお伝えします。
記念すべき第1回ツーリングは地元の強み、本田宗一郎ゆかりの地を巡る、です。

本田宗一郎生家跡

本田宗一郎の生家があった場所付近 = 浜松市天竜区船明

本田宗一郎は明治39年(1906年)に静岡県磐田郡光明村(現浜松市天竜区)で生まれました。
写真は生家があったとされる場所で、今は何も残っておりません。

諏訪湖から遠州灘めがけて流れる天竜川が巨大な南アルプス山塊の西側を沿い、それらが遠州平野とつながるその位置に光明村含む二町地区があります。
徳川・武田の激闘が繰り広げられた地として有名です。

南アルプスを越え、遠州平野を北から南へ流れる天竜川 = 浜松市中央区豊西町

本田宗一郎旧宅跡

宗一郎が父と植えた柏の木 = 浜松市天竜区山東

生家跡から南、山東(やまひがし、地名です)に旧宅跡があります。
こちらに引っ越してきたんですかね。
ここには父・儀平と一緒に植えた柏の木が今も残っています。

浜松市立光明小学校(旧光明村立山東尋常小学校)

浜松市立光明小学校 = 浜松市天竜区山東

生家跡と旧宅跡の間あたりに浜松市立光明小学校があり、当時は光明村立山東尋常小学校と言いました。
ここで宗一郎は6年間の義務教育を受けています。
戦後敗戦国の日本が凄まじい勢いで復興できたのは国民性もありますが、明治期から初等教育を全国に普及させることができた、これが大きかったでしょう。
教育って大事ですね。

しかし宗一郎は勉強嫌いで、字の読み書きが特に苦手でした。
実験とかは大好きですぐ理解できたのですが、それをテスト用紙に書くとなると書けず、成績は悪かったそうです。

和地山公園(和地山練兵場跡)

和地山公園 = 浜松市中央区和地山

宗一郎が初めて飛行機(の曲芸飛行)を見た場所です。
機械が大好きな宗一郎はどうしても見たかったのですが、父親に打ち明けると怒られると思い話すことはできませんでした。
そして家族の目を盗んで2銭を懐に入れ、当日は父親の自転車を持ち出してこの練兵場目指して漕ぎました。
でも大人用の自転車に当時小学校2年の宗一郎はサドルに座って漕ぐことができず、三角漕ぎで約20km舗装されていない道を漕いだんですね。

せっかく到着しても入場料は7銭~10銭で中に入れてもらうことができず、外の松の木に登って観覧しました。
遠くからでしたがアート・スミスの曲芸飛行を見た宗一郎は大いに感激しました。

家に戻ると今にも怒り出しそうな父親が待ち構えていました。
そりゃそうですよね。
しかし覚悟を決めて飛行機を見てきたことを告げると、父親の顔から怒りが消え「本当に見たのか?」と喜び、詳細を聞きたがったんだとか。
このエピソードが大好きです。

浜松市立二俣小学校(旧二俣町立二俣尋常高等小学校)

浜松市立二俣小学校 = 浜松市天竜区二俣町

本田宗一郎ものづくり伝承館の近くに浜松市立二俣小学校があり、当時は二俣町立二俣尋常高等小学校と呼ばれていました。
現在の中学校に相当する教育施設ですが、修学年数は3年ではなく2年です。
また当時は義務教育ではなかったので進学しない人もいました。

宗一郎が生まれた頃は貧しかったのですが、父が自転車修理業を成功させてから比較的裕福になり、進学する余裕がありました。
当の本人は相変わらず勉強嫌いで苦痛でしかなかったようですが・・・。

アート商会浜松支店跡地(東海精機重工業株式会社跡地も?)

アート商会浜松支店があった付近 = 浜松市中央区本浜町

アート商会浜松支店があった場所です。
宗一郎は高等小学校を卒業してから東京へ丁稚に出ます。
向かった先が自動車修理業を営むアート商会でした。
これも当初は宗一郎がアート商会の求人を見つけて丁稚に行きたいと父に打ち明けた後、父はアート商会所長の榊原郁三に直接会って話をするため東京を訪れたそうです。
そして工場の様子と榊原郁三の人柄を確認して、これなら息子を安心してお願いできると感じたんだとか。
もう宗一郎の父・儀平さんの愛情エピソードがたまりません。

話は飛びますが東京アート商会で6年丁稚奉公し、その腕を認めた榊原郁三は宗一郎にアート商会浜松支店の開業を許可しました。

ちなみにアート商会の店名はあのアート・スミスから取っています。
つながりますね。

浜松で自動車修理業を営んでいた総一郎でしたが、修理するのではなく部品製造をしたいと思っていました。
しかし重役は大反対、自動車修理業が軌道に乗っているのになぜ?するなら一人でやってくれ!と。
体調も崩し2カ月ほど職場から宗一郎が離れると、根負けした重役たちは渋々了承、宗一郎は東海精機重工業株式会社を設立し、アート商会浜松支店は川島末男に引き継がれました。
アート商会は今も自動車修理工場として浜松にあります。

現在の(株)アート商会 = 浜松市中央区篠ヶ瀬町

東海精機では主にピストンリングの製造をしていましたが、はじめは全然うまくいかなかったようです。
自分の知識の限界を知った宗一郎が頼ったのが浜松高等工業学校です。

浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)開校の地

浜松高等工業学校開校の地 = 浜松市中央区広沢

浜松高等工業学校開校の地の石碑は浜松市立高校の西隣、西部協働センターの前にあります。
浜松工業高等学校とよく間違われますが違います。
浜松高等工業学校は現在の静岡大学工学部です。

浜松高等工業学校の高柳健次郎教授は世界で初めてテレビジョンの実験に成功した人物で「テレビジョンの父」と呼ばれています。
ここで宗一郎はピストンリングを製造するための知識を得ました。

テレビジョン発祥の地 = 浜松市中央区広沢

面白いのが宗一郎は必要な知識を得たら中退してしまうんです。
「卒業免状(証書)なんてどうでもいい。免状をもらうためでなく、仕事のために勉強に来たんだから。映画の切符なら映画が見られるが、免状じゃ映画も見られない。」
さすがです。

他にも日本各地の大学で学び、そしてトヨタ自動車に納品できる精度のピストンリング製造に至りました。

そんな経緯もあり、静岡大学工学部は静岡市ではなく浜松市にあります。
県外者からすると「どうして工学部だけ離れた場所にあるの?静岡市に移転すればいいじゃない?」と思うでしょうが、こういった地域の歴史があるんです。

静岡大学浜松キャンパスは練兵場だった和地山公園が隣にあることから分かる通り、昔は歩兵第67連隊の兵舎がありました。

静岡大学浜松キャンパス正門 = 浜松市中央区城北

精度の高いピストンリング製造が可能になったのは良かったですが、東海精機はトヨタ自動車の傘下に入ることになりました。
そして1945年に東南海地震で工場が壊滅、そして終戦。
チーン・・・。

トヨタ自動車からはトヨタの部品を作りなさい、と指示があったようですが宗一郎は拒否しました。
人の下で働くのが耐えられない性格だったんですね(やかましいトヨタのことを嫌っていたのもあるでしょう)。
東海精機の全株式をトヨタに売却して手放します。
その東海精機は磐田市に移転しましたが、現在もアルミダイカスト製造等で活躍しています。(磐田までは行けませんでした・・・)

本田技研発祥の地(蛇屋敷跡)

本田技研発祥の地 = 浜松市中央区山下町

本田技研発祥の地(蛇屋敷跡)は山下町の六間道路沿い、アート商会浜松支店跡地から南西約400mの場所にあります。
終戦1年後の1946年、ここに本田技術研究所を設立しました。
今は寂しいくらいにひっそりと1本の碑があるだけです。
でもこの碑のように地方の小さな町工場だった本田技研が世界に轟く大企業になった、と思えばこのひっそり感はいい演出です。

織物産業が盛んな浜松なので織物機の製造からはじめ、そして宗一郎にとって転機となる補助動力付き自転車を製造するようになりました。
たまたま友人が持っていた旧陸軍の無線機用発電エンジンを見てひらめいたそうです。

自転車に補助動力をつけるというアイデアは戦前からありましたがまったく普及していませんでした。
しかし宗一郎が作った補助動力付き自転車は評判を呼び、そしてさらに改良を重ね翌年にA型自転車用補助エンジンの製造を開始します。
またこの時に後の本田技研工業(株)の二代目社長となる河島喜好が入社しています。

この本田技研発祥の地の近くにビジネス支援施設ドリーム館がありました。
これから起業する人向けのレンタルオフィスだそうです。
立地が最高ですね。

ビジネス支援施設ドリーム館 = 浜松市中央区山下町

本田技研工業株式会社本社跡

本田技研工業株式会社本社跡 = 浜松市中央区板屋町

本田技研工業株式会社跡は板屋町広小路通り沿い、本田技術研究所発祥の地から南東約950mの場所になります。
1948年に移転して本田技研工業株式会社(以降ホンダと表記します)を設立、ここから会社としての歴史がスタートします。
こちらも同じく1本の碑があるのみで、とても簡素です。

ここでは創業初期の代表作、ドリーム号D型が開発、販売がされました。
ホンダは1953年に東京へ本社を移転しているので、浜松本社時代は5年と短いものでした。
しかし浜松本社時代に宗一郎はある人物と運命的な出会いをします、その人物こそホンダ副社長になり宗一郎の名参謀と言われた藤沢武夫です。

宗一郎は天才エンジニアで目立ちたがり屋ですが経営に関しては苦手、対して藤沢は経営が得意ですが表に立つより裏方に徹して働く方が性に合う人でした。
互いの苦手を補い合う関係でも理想的なのに、相手の苦手分野は天才的に得意という夢のタッグです。
振り返ればこの時点でその後のホンダの成功が決定したのでしょうね。

本田宗一郎の浜松時代を振り返ってみて

ここまでが本田宗一郎の浜松時代での経歴になります。
ちなみに実際にまわった順番は下の通り。

  1. 本田技研工業(株)本社跡
  2. アート商会浜松支店跡地(東海精機重工業株式会社跡地も?)
  3. 本田技研発祥の地
  4. 浜松高等工業学校(現静岡大学工学部)開校の地
  5. 静岡大学工学部キャンパス
  6. 和地山公園(和地山練兵場跡)
  7. アート商会(株)
  8. 浜松市立二俣小学校(旧二俣町立二俣尋常高等小学校)
  9. 本田宗一郎旧宅跡
  10. 浜松市立光明小学校(旧光明村立山東尋常小学校)
  11. 本田宗一郎生家跡

宗一郎の浜松時代は戦前戦後の激動の時代において、時流を読み耐え抜き力を蓄えた時期と言ってもいいかもしれませんね。
なんとなく神君家康公の浜松時代と重なって感じる部分があります。
藤沢武夫が本多正信、ピッタリじゃないですか。

その後ホンダは幾多の危機を迎えますがレースに勝利することで評価を勝ち取り、1958年に起死回生V字回復の起爆剤となった代表作、スーパーカブC100を発売します。
そして私は生産終了で67年の歴史に幕を閉じるスーパーカブ50に乗って、宗一郎浜松時代のゆかりの地を巡ることができました。

スーパーカブ50の生産は終わりますが、私とスーパーカブ50との関係はここからがスタートです。
原付一種でスピードが出せないので遠出は難しいですが、近場中心にのんびりツーリングできれば、その様子を伝えられれば、と思っています。
今回の走行距離は63.5km - 1.7km = 61.8km でした。

帰宅時の積算走行距離 = 自宅にて

そして自宅に戻るとヤマモミジが紅葉真っ盛り。
いつも気付いた頃には散っていたので今年は見ることができました。

紅葉とスーパーカブ50 = 自宅にて

それでは皆さん、Have a nice day !