こんにちは、シンです。
先日こんな記事を目にして、薪ストーブユーザーの私も他人事ではないなと感じました。
記事では女性の住んでいる新興住宅地に、近年その女性の隣家を含め数軒煙突のある家が建ったということ。
早い者勝ちではないですが、その女性お気の毒としか言いようがありません。
やはり家が隣接する住宅地で薪ストーブを使うのは迷惑、日中は洗濯物干してたりするので臭い移りするのも困りますよね。
でもねぇ、薪ストーブってすごくいいんですよ。
エアコンやファンヒーターのような温風は当たらないし、石油ストーブのような燃焼臭はないし、ほぼ無音だし。
そして一つで家全体を温められます、天板の熱で鍋調理だってできます。
だから記事のユーザーも住宅密集地ではない、気兼ねなく薪ストーブが使えるところに家を建てれば良かったのに、と思います。
別に薪ストーブの是非について意見言いたくて書くわけではないのでここまで。
「我慢してる人がいる」はどこに?
ただ、上記記事のコメントで「我慢している人がいる」の文字に引っかかってしまったので、今回は「我慢」について書きます。
私は普段の会話においてこの「我慢してる人がいる」って表現に身構えてしまいます。
そうなってしまった原因は、
「私はいいんですけど、きっと誰か我慢してる人がいると思うので○○さんの行動を注意してほしい。」
と言われた経験があるからです。
はじめはうんうんと聞いていましたが、やたらと私はいいんですけどを多用するわけです。
また別の会話のときもそう。
そして気付きました、実は耐えられないのは言った本人であることを。
私はいいんですけど、と親切心で発言しているようにみせかけ、安全圏に身を置きながら、自分の望む方向へ話を進める戦法です。
実に老獪です。
だから身構えるようになりました。
我慢≠忍耐って知ってました?
「我慢しろ!」
「我慢が足りん!」
「もう我慢ならん!」
「我慢にも限界がある!」
こんな感じで我慢って言葉使いますよね。
だから我慢とはつらい状況を耐えること、と思っていました。
どうしてこんな漢字を使うんだろう、と由来を調べたら元の意味が正反対であることを知りました。
そもそも我慢とは仏教用語であって、自我意識が高くなって周りを低く見て慢心する様、驕り高ぶった様を言うそうです。
だから我(が)慢(心)と書くのか、納得。
仏教ではまずその「私が」という驕りを取り除け、自分の欲求を抑えろ、と教えるわけです。
なので上の言葉をもとの意味にすると、
「驕り高ぶれ!」 ←言われてみたい
「驕りが足らん!」 ←すみません
「もう驕ってやる!」 ←かわいい
「驕りにも限界がある!」 ←すげぇ
といったところでしょうか、全然違いますね。
これからは我慢と言わず忍耐と言おうと思います。
忍耐も仏教用語で、意味はつらい状況でも耐え忍ぶこと、今と一緒ですね。
元は忍辱(ニンニク)と書くようで、食材のニンニクの語源がこの言葉なんだとか。
今度「私はいいんですけど、きっと誰か我慢してる人がいると思うので・・・」と言われたら、
「あなたがとても我慢してること(自己中心に自分の要求を通そうとしていること)は理解しました、でも他に我慢してる人は今のところ見受けられません。」
って言ってやろうかな。
私はこういうひねくれ者です笑
ちなみに似たような漢字表現の「自慢」ですが、元々自慢という表現はなく、自誇と表現したようです。
自分を誇張するといった意味あいは現代も変わりはないかな、と。
我慢を叶えるために忍耐する
できれば忍耐が必要な生活はしたくありませんが、そうも言ってられません。
「あ~あ、お金欲しいなぁ、休み欲しいなぁ。でも我慢(忍耐)するか。」
てな具合に。
この場合、お金と休み(自由な時間)が潤沢にあれば耐えなくて済みます。
お金と休みを欲することが我慢、我慢を抑えることが忍耐です(生き死ににかかわるレベル=生理的欲求は我慢じゃないと思いたい)。
もしお金と休みが手に入ってもその次には、
「空を自由に飛びたいなぁ、でも我慢(忍耐)するか。」
となります。
お金は潤沢にあるのでプライベートジェットを買いましょうか。
このように人の欲は際限がなく、どんどん欲してしまいます。
なので仏教で我慢は悪いこととされている訳です。
でも我慢があるから忍耐が生まれるのも然り。
何事も程々が一番、中道ってやつ。
あ、これも仏教の教えですね。
ということでこれからも我慢(物欲)を叶えるために忍耐(労働)します。
それでは皆さん、Have a nice day !