2022GW 滋賀旅行の思い出⑤「井伊直政と井伊家」

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皆さんこんにちは、シンです。

今日の“シン”記録はGW滋賀旅行の思い出5回目、これで最後です(多分)。
最後は「井伊直政と井伊家」についてちょっとだけ触れます。

【彦根駅前の井伊直政像】

お家存続危機の幼少期

井伊直政の父・直親は今川家の手によって殺され、虎松(直政)も命を狙われることになりました。
井伊家は直虎が当主となったものの、家臣の小野政次に乗っ取られ、虎松は三河・鳳来寺に身を寄せました。

直虎たちは徳川家に付くのが利と判断し、虎松の母・ひよを松下家に嫁がせ、虎松を松下家の養子として、徳川家に士官するタイミングを待ちました。

その後虎松は家康の目に留まるところとなり、井伊姓を名乗ることが許され、名も万千代と改めました。
さらに井伊谷の領有も認められ、井伊家は復興しました。
万千代の生い立ちに関して、家康は自身の境遇と重ねて見ていたかもしれませんね。

井伊の赤鬼

1582年(22歳)に元服し、直政と名乗るようになりました。
織田家によって滅亡した武田領は、本能寺の変により内乱や周辺国からの侵攻を経て、甲斐・信濃は徳川領となりました。

そして武田遺臣約120名は直政が預かることになります。
武田家の猛将・山県昌景の部隊が赤い甲冑を着て恐れられていたのを直政が継いだことで、「井伊の赤備え」が生まれました。

彦根城博物館には井伊直政のものと伝えられている甲冑が展示されています。
これを見るのも今旅の目的の一つでした。

【朱漆塗紺糸縅桶川二枚胴具足】

1584年の小牧・長久手の戦いにおいて赤い甲冑に角をつけた井伊直政の獅子奮迅の働きを見て、「井伊の赤鬼」と恐れられたそうです。

恐れたのは敵だけではありません。
直政は家臣に大層厳しく、手打ちにすることもあったようです。
なので家臣は直政に呼び出されると家族に帰ってこられないかもしれないと伝えて館に向かったそうです。
超絶ブラック上司ですね。
直政は42歳と若くして亡くなりましたが、当時は殉死する風習があるにもかかわらず、誰一人として後追いする家臣がいなかったとか。

家臣には厳しいですが、政治手腕は優れていて領民から慕われていたそうです。

常に前線を任される存在

家康が秀吉から関東移封を命じられた際、直政を上野箕輪城主12万石に任じました。
そして関ヶ原の後に近江佐和山城主となり、上野と合わせて18万石の大名となります。

上野箕輪城主の時は北に五大老の1人・上杉景勝、西に小国なれど侮れない真田昌幸がいてまいた。
近江佐和山城主の時は大坂豊臣家を中心とした西国勢力に睨みを効かせると共に御所を守る役目がありました。

軍事的に重要な領地は、何があっても裏切ることがないと信用できる者であり、そして守り切れる能力がある者でしか務まりません。
家康にとっての直政とはそういう存在だったのでしょうね。

猛将の印象が強い徳川四天王(酒井忠次、榊原康政、本田忠勝、井伊直政)ですが、直政は調停役を任される等外交面でも活躍しています。

そんな直政も関ヶ原の戦いで受けた銃創の悪化により、2年後の1602年に亡くなりました。
常に先陣切って前線で活躍する武将でした。

【跨るものは違いますが。娘寝てますが。】

優秀な二代目・直孝

直政の跡を一旦ついだのは長男・直継でしたが、体が弱かったのか大坂の陣では次男の直孝が井伊家を率いて出陣し、大活躍しました。

その時の模様として、少し前の大河ドラマ「真田丸」でこんなシーンがありました。

高梨内記「相手に不足はございません。あちらにも赤備えがおりますぞ」
信繁「あれは井伊直孝だ、かの井伊直政の次男坊だ」
内記「井伊でございますか」
信繁「向こうにも、ここに至るまでの物語があるんだろうな」
内記「一度、聞いてみたいものですな」

実際は信州上田にいたときに上野箕輪の井伊家とは隣国同士ですし、関ヶ原では昌幸・信繁父子の嘆願助命に直政は奔走しているので、真田にとって井伊はよく知った相手だったはず。
上述の高梨内記の台詞には違和感があります。

しかしこれは翌年の大河ドラマ「おんな城主直虎」に向けた三谷幸喜の演出です。
この放送を見たときは胸が熱くなりました。
今大河ドラマでも何か仕掛けてくるでしょうかね。

ちなみに私がこのGWに井伊家の彦根を訪れている間、ブロ友のid:totsuspoさんは上田・真田の里を訪れていました。
何たる偶然でしょう笑

totsuspo.hatenablog.com

大坂の陣での活躍により井伊家彦根藩主は直孝となり、直継は上野安中藩主となりました。
直孝は徳川家光・家綱の後見役を務め、幕府重鎮としての井伊家の地位を確立させました。

【玄宮楽々園から天守を望む】

実は有名な茶人だった井伊直弼

井伊直弼のことを書き出すと長くなっちゃうのでやめておきます。
ただ今回彦根を訪れて、井伊直弼が有名な茶人であったことを初めて知りました。
よく使う「一期一会」という言葉、広めたのは井伊直弼なんですよ。
しかし「独座観念」という言葉は今回知りました。
「客人が見えなくなるまで見送り、そそくさと片付けるのではなく、『客人は今どのあたりだろうか?』と案じながら、今回の茶会の一期一会は二度とないことを思い、振り返りながら一服する」
といった意味なんだそうです。
相手を思いやる心を持った茶人・直弼と安政の大獄が結びつかないんですよね。
幕末には疎いので勉強しようと思います。

【無作法ながらお茶も頂きました】

一期一会の(オフ)会が近づいた

この一期一会、独座観念という言葉に示される茶会の心得、自分もその精神で生きていきたいな、と今更ながら思った次第です。
そんな出会いが約1週間後に迫っております。
皆さんが去るのを見送り、無事帰路についているだろうかと案じながら、楽しい時間を振り返ってコーヒーを飲む。
いいじゃないですか。

問題は自分が一番手で帰る「客人」の可能性があるってことです。
あ、そもそもホストはタチコマンさんだから、私初めから「客人」でした笑

これでGW滋賀旅行の記事は終了です、最後まで読んでいただきありがとうございました。
あと残った写真を紹介して終わりにします。

それでは皆さん、Have a nice day !

【大手門前の駐車場、終日¥1,000】

【フリーフォールという名の滑り台】

【被り物してる人は要注意ですぞ】

【琵琶湖〜彦根駅をサイクリング】