【史跡】武田勝頼ゆかりの地・武節城趾を眺めて

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皆さんこんにちは、シンです。

先日御嶽へスキーに行く際に寄った「道の駅どんぐりの里いなぶ」、道を挟んだすぐ隣の小高いところに「武節城趾」があります。

【武節城趾】

ココ「武田勝頼ゆかりの地」となって、実は長篠・設楽原の戦いに関連する史跡なんです。
時間がなかったので眺めただけですけど。

www.mountain-camp-cycling.com

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ここは三河国ですが「徳川ゆかりの地」の印象は長篠・設楽原あたりが境界線、それより北部地域は武田推しです。

長篠・設楽原の戦いで敗れた武田勝頼は支配下の奥三河国衆・菅沼定忠とともに定忠が治める田峯城へ向かいましたが、田峯城を守る定忠の家臣は織田・徳川の追撃を恐れて開門せず。
自分が仕える主君(勝頼)を連れているのに自分の城に入れない定忠。

勝頼「定忠、仕方ない。先に行こう・・・ああ、疲れたなぁ。腹減ったなぁ。」
定忠「・・・殿・・・面目ない(畜生、あいつら覚えてろよ!)」

すごく気まずい空気が流れ、そして定忠は怒りが込み上げたことでしょう。

仕方なしに更に進み、やっと休むことができたのは定忠の支城であるここ武節城。
ここから目の前の峠をひと頑張り越えれば信州・伊那谷、と言う場所です。
勝頼は武節城で一泊してから信州に向け出立しました。

国境の阿智村駒場には上杉謙信との海津城主・高坂昌信(春日信綱)が8,000名の兵を連れて勝頼を出迎え、ようやく勝頼は追撃の恐れから解放され無事帰城することができました。
また昌信は勝頼が敗軍の将であると領民に悟られないよう、装備を新品にするという配慮をしていました。

 

高坂昌信(春日信綱)

ここで登場した高坂昌信は元は百姓の子でしたが、武田信玄にその素質を認められ異例の大出世をした人物で、武田四名臣に数えられています。
スケールは違いますが豊臣秀吉と近いものを感じますね。

そして1556年に信濃海津城主となります。
この海津城は長野市にありますが、近くにはかの有名な川中島古戦場があります。
そう、ここ海津城は甲斐の虎・武田信玄が越後の龍・上杉謙信とバチバチ火花を散らしていた最前線です。
上杉防衛の最重要拠点を任された人物、これはよほど信頼されていないと任されない役目です。
昌信は三方原の戦い以外においてはこの地を離れることがなかったと言われています。
それだけ上杉防衛が武田にとって重要任務であったかが伺い知れます。

そんな昌信も勝頼には疎まれていたそうです。(口うるさかったのかな?)
しかし設楽原での敗戦の報を聞き、信濃国の最北から最南まで迎えに行く忠義、恐れ入ります。

しかし、設楽原では昌信の嫡男の昌澄も討死、武田四名臣も自分を残して3人が討死しています。
昌信も相当ショックだったでしょうね。

信玄の代から仕えていた我々の忠告に耳を貸さず、勝頼の代になって台頭してきた勝頼寄りの家臣を重用し、その結果招いた大敗戦。
相当怒れたことでしょう。
「ほら、言わんこっちゃない。これからはちゃんと私たちの意見も聞きなさい!」
と、いくつか武田家再興に関する忠告をしています。
言うこと聞かずに大敗北を喫した勝頼には耳の痛む内容だったことでしょう。

昌信は甲陽軍鑑の作者(実際は後述したものをお付きの人が書き記した)でもあります。

 

菅沼定忠

さてもう一人の登場人物の菅沼定忠。
この方元々は今川家に従属していた奥三河の国衆でした。
桶狭間で今川義元が討たれた後に徳川家康が岡崎で独立、所領安堵を条件に徳川に服従しましたが、再び今川の元へ移ります。

その後徳川の三河支配が決定的になったことを受けてまた徳川に従属しました。
しかし所領の近く、東濃における武田軍の凄まじい強さを目の当たりにした定忠は1572年にまたもや徳川を離れ武田に従属して三方原では武田軍として参戦しています。

こうやって書くと軽薄な人間だなぁと思いますが、当時の国境の国衆というのは大体こんな感じだったようです。

そして長篠・設楽原でも武田軍として参戦して敗退、前述した通り自分の城(田峯城)なのに主君・勝頼の眼前で家臣から入城を拒否られるという辱めを受けました。

「この恨み晴らさでおくべきかっ!」と怒りに狂った定忠は田峯城を攻め、城内の人間を全て惨殺してしまいました。
特に入城を拒否った家臣については生捕りにして鋸挽きの刑に処すという残虐極まりない報復をしました。

最終的には信州に侵攻してきた織田軍との戦闘の末討ち死にしたとか、降伏を願い出た際に百姓に討たれたとか言われています。

結果を知っている我々からすると常に間違いの方を選んでるように思えますが、実際はより良い方を選択していたと思います、最後以外は。
三河平定前の徳川と今川の国力を比べれば、今川の方が上ですし、三方原に関しては間違いなく武田についていないと滅ぼされていました。

そして長篠・設楽原の戦いの時においても、徳川と武田だけで比べれば武田優勢なんですよ。
菅沼定忠はダメな武将ではなく、乱世をなんとしても生き抜こうとした武将である、と思いますね。

 

今は道の駅のすぐ横にあるこぢんまりとした地味な存在の武節城趾、でも調べてみると物語があるものです。

それでは皆さん、Have a nice day !