【ポタリング】Daytona DE01で長篠・設楽原の戦いの地を散策 Vol.4 〜岩瀬忠震という英雄〜

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皆さんこんにちは、シンです。

Daytona DE01で長篠・設楽原ポタリングの続きです。

前回記事はコチラ↓

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もはやポタリングとは関係なくなってきていますが、設楽原歴史資料館に行って新たな人物を知ることになったので、ちょっと紹介を。

その人物は「岩瀬忠震(ただなり)」です。

【岩瀬忠震といふ男】

この方は幕末の外国奉行を務めた方です。
まだ鎖国中の日本にロシアだアメリカだイギリスだ、間髪入れずにオランダだフランスだ、と次々と列強諸国が条約締結しろー!開港しろー!と迫ってきた日本史上の大きな転換期にその要職についていた訳ですね。
つまりものすごい優秀な方だったということです。
そんな優秀な忠震の生まれがこのあたりだということです、それは知りませんでした。

当時寂れた漁村でしかなかった場所を開港に指名した唯一の人物が忠震でした。

その漁村の名は「横浜」。

横浜が大都市に発展したのは忠震のおかげと言って過言ではないはず。

忠震は諸国との条約締結の席には必ず座り、見事に役目を果たした2日後、井伊直弼により外交奉行から作事奉行に左遷、世に言う安政の大獄です。
一橋派だった忠震の行動が井伊直弼の逆鱗に触れたんですね。
さらには作事奉行も免職され、「永蟄居」という終身刑を言い渡されてしまいました。

幕府のために奔走していたのに何たる仕打ち。
しかし同じく一橋派の橋本左内や吉田松陰が斬首刑であったことを考えると、忠震が命まで奪われない永蟄居で済んだのは井伊直弼なりの温情、という解釈もできます。

しかし政治の表舞台で輝いていた忠震にとって永蟄居は死んだも同然の心境だったことでしょう。
長男・三男も早くに亡くし、残った次男も16歳であの世へ。
職も金も何もかも奪われた挙句子にも先立たれ・・・。
失意のどん底で生きる希望すらなく、次男の死を追うように亡くなりました。

そんな忠震の最期は数人の従者がひっそりと棺を運ぶ寂しいものだったようです。

でも。

今では忠震の功績を後世に伝えようとこのように資料館で展示され、名誉も回復されたことでしょう。

【立派な像も建ててもらえましたよ】

正直幕末〜明治維新のあたりってあまり興味なかったのですが、こういう人物を身近に感じられることで俄然興味が湧いてきました。
「青天を衝け」、ちゃんと見とけばよかったな。

それでは皆さん、Have a nice day !