皆さんこんにちは、シンです。
Daytona DE01で長篠・設楽原ポタリングの続きです。
前回記事はコチラ↓
道の駅から設楽原歴史資料館までDE01で移動します。
と言っても大した距離はありません。
その手前に信玄塚なる場所があったので寄りました。
塚は大塚と小塚の2つがあり、大塚には武田軍の死者が、小塚には織田・徳川連合軍の死者が弔われています。
なぜ信玄と名がついたのかは不明なようですが、死して尚生き続ける信玄の名、当時余程のインパクトを与えた御仁なんだなぁ、とつくづく思います。
この信玄塚の隣に設楽原歴史資料館があります。
そこには設楽原の戦いのシンボルでもある馬防柵が再現されています。
長篠・設楽原の戦いは「長篠の戦い」と簡略化されて語られることが多く、長篠に比べて設楽原という名称の認識は低いのではないでしょうか。
それでも多くの人が思い描く「馬防柵と火縄銃の三段撃ち」の戦いが行われた場所は設楽原で、長篠は前回書いた攻城(籠城)戦です。
いろいろと批判の多かった大河ドラマ「どうする家康」でしたが、第21回「長篠を救え!」は長篠城の攻防と岡崎体育さん演じる鳥居強右衛門の回、そして続く第22回タイトルは「設楽原の戦い」と争われた地名を正しく表記していました。
この一連の出来事を2回の放送回に分けて丁寧に描いてくれたのも嬉しく感じました。
1983年の大河ドラマ「徳川家康」では第15回「長篠の戦」だけだったようですからね。
作中では設楽原での一方的な銃殺に、徳川家康の長男・信康が「これが戦、にございますか。これは・・・なぶり殺しじゃ。」と語る演出がされていました。
命を賭けて戦う武士の誇りを踏み躙る、嘲笑うかのような戦い方に信康がショックを受けた演出がされていました。
「ゼニ持っとるもんが勝つんだわ」
秀吉のセリフの通り、まさに戦い方の変革が起きたのがここ設楽原です。
なのでこの資料館は火縄銃の展示が中心となっています。
この戦いが行われたのが1575年、種子島でポルトガル人宣教師が火縄銃を紹介したのが1543年ですからその間32年です。
32年で火縄銃の構造を理解して自分たちで作り上げ、大量生産して全国に広めていった当時の日本の技術力はすごいと思います。
宣教師たちも度肝を抜かれたことでしょう。
その他アジア地域とは明らかに違う文化レベルの高さに植民地化するのは容易ではないと悟ったはずです。
ちなみに織田・徳川連合軍の火縄銃は3,000挺と多いのですが、対する武田軍も1,000挺ほどの火縄銃を所持していたと言われています。
兵数から考えると所持率に大差はなく、決して武田軍が旧態依然とした戦い方をしていたわけではなく、ちゃんとアップデートされていた組織・集団だったはずです。
しかし所持すれば即殺傷能力がある刀槍と違い、火縄銃は火薬と玉がなければ武器として使用できません。
両軍の決定的な差は火薬と玉の物量にありました。
ひっきりなしに撃ち続けたと言われる三段撃ちですが実はその撃ち方にも諸説あって、撃ち手の手順を三段階にして交代しながら撃つという意味の三段撃ち、これは従来から言われている説です。
それとは違ってこの戦いの舞台となった蓮吾川の河岸段丘を巧みに利用した配置による三段撃ち、という説もあります。
ただ写真の撃ち方だと最前列は後ろから銃弾が飛んでくる恐怖があり、最後列は命中率が落ちるというデメリットがあります。
手順を三段階にした方法は前後移動するのがなかなかスムーズにいかず、それほど時短にならないそうです。
個人的には3人1組で撃ち手1名充填役2名と役割分担している方が効率良いと思います。
3,000人が正確に撃てる訓練をするより、1,000人上手に撃てる人を育てるまたは選抜した方が効率いいと思いません?
前後移動も少なく済みますので移動の手間がかかりません。
とにかく火薬と玉が貴重で十分量なかった武田軍からすると、絶え間なく打ち続けられる織田・徳川連合軍の物量に圧倒されたんだろうなぁ、と。
ちなみにそんな銃撃が繰り広げられた戦場ですが玉があまり落ちていないそうです。
と言うのも貴重な玉ですからちゃんと「玉拾い」していたみたいです。
この設楽原歴史資料館があるのは武田軍の陣地側の台地で、資料館の屋上から決戦の舞台が俯瞰できます。
織田信長本陣は新東名長篠PA(下り)の近くにあります。
ではこの台地を降って馬防柵のあるところまで移動します。
設楽原というので戦った場所はだだっ広い場所かと思っていました。
実際は台地と台地の間の小さな谷間で、その中央に連吾川が流れている場所だったんですね。
今でこそ水田になっていますが当時はきっと湿地帯だったんだろうな、と。
では織田・徳川連合軍側にまわってみます。
馬防柵が平原の中央ではなく、織田・徳川連合軍陣地の丘陵すぐ近くに設置されているのが分かると思います。
結局の所この戦いは野戦というよりも戦場に簡易的に作られた馬防柵が「城郭」として機能した攻城戦のようなものだったのかな、と感じます。
上の写真の対岸の丘陵地帯に武田勝頼の本陣跡があります。
そちらの様子はこんな感じでした。
(実際は資料館から先にそちらに行ってからこの馬防柵のところに移動しています)
この木がなければ戦場を見渡せる好立地です。
ここで勝頼は次々と撃たれて死んでいく自軍の兵を見ていたのか・・・。
きっと勝頼だって戦う前から勝つのが難しいことは悟っていたことでしょう。
でも戦うしか道がなく、一縷の望みに賭けて戦ったものの、やはり敗れた。
そんなところでしょう。
勝頼本陣を後にしてこの戦いで討ち死にした武田の将の墓参りをします、といったところで【続く】です。
それでは皆さん、Have a nice day !