皆さんこんにちは、シンです。
東海道ポタリング旅【岡崎宿〜三条大橋編】、今回は池鯉鮒宿です。
39番目・池鯉鮒宿
国道1号の跨道橋を渡って反対側へ回るともうひとつ、名鉄名古屋本線の跨道橋がありますがそれは渡ってはいけません。
御林の交差点を左斜め方向に進むと日本橋から数えて39番目の宿場町、池鯉鮒宿があります。
池鯉鮒は「ちりゅう」と読みます。
ここにある御手洗池は殺生禁断の池であったため鯉や鮒が多かったことから、知立を「池鯉鮒」と書くようになったそうです。
一種の言葉遊びで発想的には「夜露死苦」とか「仏恥義理」みたいなもんですかね。
表意文字である漢字を使う文化であるからこそできる洒落です。
御手洗公園
ではその鯉とか鮒が多くいたとされる御手洗(みたらし)池に行ってみましょう。
昔、キヤノン(ヤは小文字じゃないんですよ!)の御手洗(みたらい)会長がテレビに出たとき、「へえ、『おてあらい』なんて名字あるんだ〜」と言って大恥かいたことがあります。
御手洗と書いて「おてあらい」「みたらし」「みたらい」と3つの読みがある、日本語が難しい訳です。
池は干上がったのか造成されたのか跡形もなく、「御手洗公園」となっていました。
大あんまき(藤田屋)
知立に寄ったら外せないのが名物大あんまき、旧東海道沿いに元祖のお店(小松屋)があるのですがこの日は定休日でした。
なので国道1号沿いの藤田屋本店で購入、私のおすすめは「チーズ」です。
池鯉鮒宿跡地巡り
池鯉鮒宿に残っている跡地を一通りチェックしました。
この辺りは都市開発が進んでいて残念ながら昔の面影は残っていません。
池鯉鮒宿は本陣、脇本陣が1軒ずつということでそれほど大きな宿場ではなかったのかな、と思います。
宮宿、鳴海宿と岡崎宿の間ですから昼休憩利用が多かったのかもしれません。
知立古城址
知立神社
池鯉鮒宿の北西に位置する知立神社は三河国の二宮にして別表神社でもある由緒ある神社です。
なので参勤交代の諸大名は必ず立ち寄って参拝していたそうです。
そしてその造も「尾張造」という尾張国の特徴的な形式であり、それが三河国にあること自体が珍しいんだとか。
長勝院生誕地の石碑
知立神社の西側にある総持寺の入り口には長勝院生誕地の石碑があります。
長勝院とは徳川家康の子・結城秀康の母である「於万の方」です。
当時は正室・側室と一夫多妻制の時代ですが、好き勝手に側室が持てたわけではなく、側室と認めるかは正室の権限だったようです。
於万の方は家康の子を妊娠しましたが、家康の正室である築山殿は彼女を側室と認めず、追放しました。
生まれた子(秀康)は家康の子と認められず、家康も対面することもできませんでした。
その冷遇を不憫に思った家康の長男・信康の取りなしによって秀康が3歳の時に家康は初めて対面できました。
秀康が家康の子であると認められたのは築山殿・信康死後のことでした。
結城秀康は勇猛な武将で、家康はその力量を認めていました。
関ヶ原の戦いの時、秀康は宇都宮に留まって伊達政宗と共に会津の上杉を牽制する役目でした。
関ヶ原の戦いの後、秀康は越前68万石に移封となります。
越前は加賀100万石の前田家と大坂の間であり、交通・海運においても重要な拠点となる場所なので、そこを任せられる人物というのは相当優秀だったのでしょう。
秀康は1607年に34歳の若さで亡くなりましたが、母の於万の方は1620年まで生きました。
ここから尾張国へ
知立から刈谷を経て三河国と尾張国の境まで来ました。
この橋の向こうは尾張国で、すぐのところに桶狭間古戦場があります。
ということで次回は桶狭間、鳴海宿です。【続く】
それでは皆さん、Have a nice day !