【ポタリング】Daytona DE01で東海道をポタリング:岡崎宿から三条大橋編 Vol.1 〜岡崎宿から池鯉鮒宿手前まで〜

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皆さんこんにちは、シンです。

東海道ポタリング旅【岡崎宿〜三条大橋編】、今回から旅の様子を記していきます。
今回は岡崎宿から池鯉鮒宿の手前までの内容になります。

2024年2月13日(火) 1日目

夜明け前から始動

3時20分に起床して、3時30分Dayotna DE01を積んだアトちゃんのエンジン始動、職場駐車場に向け出発。
職場駐車場でアトちゃんに別れを告げ、ウォーミングアップがてらDE01で浜松駅まで走ります。

さすがに朝4時ならほとんど停まっていない。浜松駅まで約9kmともう少し近ければいいのだが、まあ仕方ない。

浜松駅に4時30分到着したものの駅の扉には「コンコースは5時まで閉鎖」の文字が。
5時1分の始発にはどうやって乗るんだ?と思ったら始発は6時1分、1時間間違えていました。

1時間早く着いてしまったが、おかげで誰もいない駅前を見ることができた。とりあえず30分待つ。

始発電車なら車両が止まっていて座れるのでは?という淡い希望は打ち砕かれ、約40分もの間冷たい風が吹きさらすホームでじっと耐える。

名古屋行き始発の新快速は出発10分前にホームに来た。てっきり静岡方面から来るものだと思っていたが、名古屋方面から来たのは意外だった。

マナーを守って最後尾車両に乗車、空き空きの始発にも関わらず最後尾車両を選ぶ乗客が案外いたことにも驚きだった。

6時55分に岡崎駅到着、前回はここでDE01を組み立てて岡崎城まで向かいましたが、よくよく考えると岡崎駅からは愛知環状鉄道(通称:愛環)が出ていて、乗り継げば岡崎城まで電車移動ができることに気付きました。
なので0番線ホーム(0番、なんてあるんですね)から7時12分発の列車で2駅先の中岡崎駅まで乗ることにしました。

JR東海道本線岡崎駅からJR中央本線高蔵寺駅を繋ぐ愛知環状鉄道。岡崎に高校まで住んでいたが豊田方面に用事はなかったので乗ったことはなかった。

喫茶店でモーニング

7時17分中岡崎駅到着、ここでDE01を組み立てますがまだスタートはしません。
前回朝食も摂らずに自転車漕いで脚がつったので今回はちゃんと朝食を摂ります。
中岡崎駅近くに朝から営業している喫茶店を検索して「双龍亭」というお店でモーニングをいただきました。

平屋のログハウスのお店。朝も早かったので私が入った時には常連っぽいお客が3組ほどで待つことなく座ることができた。
 

店の中は外観以上に開放的な空間が広がっていて、木の温もりが心地よいお店だった。

モーニング¥450、私はプラス¥50で小倉あんをトッピング。それでもワンコインという安さ。

松葉総門跡からスタート

朝食も済ませたのでいよいよスタートです。
前回は岡崎城西の松葉総門跡から浜松宿へ向かったので、今回もスタートは松葉総門跡にしました。
この時点で起床してからすでに4時間30分経過していました。

岡崎城西側の国道248号沿いにある松葉総門跡の石碑。ここが岡崎城の西の玄関口だった。

八丁味噌蔵

松葉総門跡から西へ向かうと味噌蔵がある。岡崎城から八帖(丁)の距離にあるから「八丁味噌」と名付けられた。八丁味噌と呼ばれる味噌はここで作られたものだけを言う。

2006年放送のNHK連続テレビ小説「純情きらり」の舞台となったのがここ。主役を演じた宮崎あおいさんの手形があった。私より手が大きかったらどうしよう?と思ったがそんなことはなかった。

矢作大橋

味噌蔵のすぐ隣には矢作川、ここに架かっていた矢作大橋は江戸時代においては日本最長の橋だったようです。
なので歌川広重は岡崎宿の絵にはお城と矢作の橋を描いたんですね。

矢作大橋を岡崎城側から対岸の矢作地区を見たところ。当時ここを往来した人達は「これが日本一の橋か!」と驚嘆し、家に帰って自慢話をしたんだろう。

矢作一里塚

橋を越えてすぐ、木下日吉丸(のちの豊臣秀吉)と蜂須賀小六がここで出会ったとされる出合乃像の近くに矢作一里塚があったようです。
岡崎宿から三条大橋までの間に36の一里塚があり、ここのように目印のないところもいくつかあります。
見落とさないようGoogle Mapを頼りに進むのは案外ストレスだったりします。
でもただ走るだけじゃつまらないですからね。

勝蓮寺のあるあたりに一里塚があったらしいが、目印となる石碑はなかった。

尾崎一里塚

矢作一里塚から国道1号の北側を通り、途中で国道1号と合流したのちにラーメン横綱とマクドナルドのあるところの北側が旧東海道となっています。
ここなんかは松並木になっているので分かりやすいですが、非常に分かりづらいところもあり、油断していると間違ったルートを通ってしまいます。

右側の松並木が旧東海道で分かりやすい。この時は「横綱で朝食」という頭が働かなかったことを後悔した。

この松並木(並木というほどではないが)を少し行ったところの熊野神社の境内に尾崎一里塚がありました。

大きくて分かりやすい尾崎一里塚の石碑。戦時にはこのあたりに岡崎海軍航空隊があったようだ。

無量壽寺の八橋かきつばた園

次の来迎寺一里塚の手前で少しルートを外れて北へ向かい、無量壽寺というお寺にいきました。
こちらにある「八橋かきつばた園」を見たかったのです。

不真面目な私なので詳しくは覚えていないのですが、中学の国語か高校古文の授業の時に「お・も・て・な・し」ならぬ「か・き・つ・ば・た」と言うキーワードを習った記憶ははっきりと覚えています。

からころも きつつなれにし つましあれば
はるばるきぬる たびをしぞおもふ

この歌は平安時代の歌人・在原業平が詠んだ歌で、折句という技法だそうです。
歌の意味は「(京に置いて来たが)この着慣れた唐衣のように長年連れ添った妻が側にいないので寂しい、はるばる旅をして思うところです」って感じでしょう。

新婚なら「私も寂しいよ〜、え〜ん泣」でしょう、しかしこの句は長年連れ添った妻となっています。
さながら「ウキウキしながら旅に出といて何調子のいいこと言ってんの!馬鹿野郎」ってところでしょうか。

一人旅に出るとやたらとカミさんにLINEを送ってしまいますが、返事が素っ気ないのなんの。
私は業平の気持ちが痛いほどよく分かります。

八橋かきつばた園にある在原業平の石像。在原姓を名乗ったが元は天皇家の血筋で非常に高貴な人物である。

さてここの地名の八橋ですが、由来にこんな伝説があります。

昔、この辺りに幼い子2人と住んでいた女性がいて、夫を失っていたので生活のために一生懸命働いていました。
ある時子ども達が母に会おうと河したところ水難事故によって命を失いました。
嘆き悲しんだ女性は同じ不幸を繰り返してはいけないと、その場にあった8枚の板を並べて橋にしました。

この地域で語り継がれている「八橋」の伝説です。
そしてその八つの橋を模して作られたものが京都を代表するお菓子「八ツ橋」です(名称起源は諸説あり)。

かきつばた園の池にはその板橋をイメージして橋がかけられています。
しかし行った時期はかきつばたの準備途中で池の水も抜かれていたので、何の感動もありませんでした。
ちなみにかきつばたは愛知県の花に制定されています。

確かに橋は8つ架かっている。かきつばたが咲いているときに見てみたい。

来迎寺一里塚

無量壽寺から旧東海道へ戻り、今回3つ目の来迎寺一里塚に到着。
ここは道の両サイドにあり、塚の名の通りに盛り上がった状態で保存されていました。ただ、一里塚に植えられていた木は榎だと聞いた覚えがあります。
これは明らかに松ですし、当時からここに生えていたにしては小さいかな?

道の両サイドに存在する来迎寺の一里塚。他の一里塚も本来は道を挟んで一対で存在していたのだろうか。

知立松並木

旧街道を象徴するものと言えば松並木です。
旧東海道にも松並木が点在していますが知立より西にはなさそうです(実際通ってみてありませんでした)。
ここの松の樹齢は200〜250年らしいので1800年前後に植え替えられたということになります。
この松は江戸時代の参勤交代、幕末新政府軍の行進を見届け、今を生きてるんですね。

知立の松並木。愛知県内には御油、藤川そしてここ知立に松並木が存在する。

馬市之趾

旧東海道が国道1号と合流する手前に馬市之趾の石碑があります。
歌川広重の描いた池鯉鮒宿の絵のタイトルは「夏首馬市」で、多くの馬が描かれたものです。

甲信地方からも馬が運ばれてきて、馬市は大層盛大だったそうです。
当時の馬といえば高い身分(武士)の移動手段のイメージなので、この馬市を現代的に見るならば高級外車のディーラー(フェラーリとかね)といったところでしょうか。

国道1号との合流付近にある馬市之趾石碑と案内看板。

これで国道1号を跨いだ先が池鯉鮒宿の入り口です。【続く】

それでは皆さん、Have a nice day !