皆さんこんにちは、シンです。
東海道ポタリング旅【岡崎宿〜三条大橋編】2日目、今回は桑名宿を通り過ぎたあたりから庄野宿までを記します。
このあたりはほとんど走っただけなので写真メインの記事です。
縄生一里塚跡
員弁川越えると縄生一里塚跡がある。七里の渡しの間は一里塚がなかったので久しぶりに見る一里塚跡だ。
桑名市と四日市市に挟まれた朝日町には東海道五十三次の宿場町はなく、通過するだけでしたが旧東海道はきれいに整備されていました。
朝日町の旧東海道はとても走りやすかった。この辺りは桜の木が植えられていて、春には最高のサイクリングロードとなりそうだ。
朝日町と四日市市の境にある朝明川に到達。
今では建物が建ち並んでいるのであまり見えませんが、当時はきっと西側に鈴鹿山脈を眺めながら歩いていたのだろうなぁ。
朝明橋から御在所岳を眺めていたらJR関西本線の電車が通過した。鈴鹿山脈は標高1,000〜1,200m程度ではあるが平野部に近く急峻であるのでとても存在感がある。
冨田一里塚跡
三ツ谷一里塚跡
三ツ谷の一里塚の近くに一蘭がありました。
人生で二度目の入店、10年以上ぶりなので味も忘れました。
とんこつラーメンだと一風堂をよく食べますが、一蘭も美味しいですね。
人生で二度目の入店、10年以上ぶりなので味も忘れました。
とんこつラーメンだと一風堂をよく食べますが、一蘭も美味しいですね。
クセの少ないとんこつラーメン。発券機で支払い、席に座って細かなオーダーを紙に書いて渡すシステム。今回はとりあえず全て標準を選んだ。この後の行程も考えスープは飲み干すのはやめた。
この辺りで膝痛が出現していましたがザムストの膝サポーターをしていたおかげで激痛を生じるまでには至らず。
食事もしっかり摂っていましたし、お昼にはラーメンで適度?に塩分も補給していたので足がつることもありませんでした。
食事もしっかり摂っていましたし、お昼にはラーメンで適度?に塩分も補給していたので足がつることもありませんでした。
昼食を終え少し進むと三滝川に到達、向かいの河岸からが四日市宿となります。
43番目・四日市宿
歌川広重 東海道五十三次之内 四日市 三重川
この日は天気も穏やかで浮世絵のような風が吹くこともありませんでした。
浮世絵に描かれている三重川は現在の三滝川です。
浮世絵に描かれている三重川は現在の三滝川です。
現在の三滝川。広重の絵はおそらくこのあたりの風景を描いたのであろう。
宮宿から四日市宿までの航路もあったようで、四日市宿までの船は「十里の渡し」と言われていました。
四日市名物のなが餅を製造している笹井屋の本店。せっかくなので初めてなが餅を購入してみた。
四日市宿跡地巡り
四日市宿陣屋跡。陣屋(代官所)とは天領(幕府直轄地)に派遣された代官が仕事を行っていた役所のこと。全ての宿場町にあるものではない。四日市宿陣屋があった場所は現在四日市市立中部西小学校があり、三重県最初の小学校である。
この立派な道標と陣屋跡の間に本陣跡が2つあるのだが、それを示す標識等は見当たらず。
四日市市は三重県北部の中心都市であり、宿場町があった場所が現在の四日市市中心部です。
たかが江戸時代の宿場町の本陣があった場所を示す標識を建てたり、その場所を残して保存するようなことはしない、といったスタンスなのでしょうか。
こうやって旅している私にとっては残念ではありますが、残すとなるとコストがかかりますし、大勢の人にとっては大した価値のないものでありますからね。
たかが江戸時代の宿場町の本陣があった場所を示す標識を建てたり、その場所を残して保存するようなことはしない、といったスタンスなのでしょうか。
こうやって旅している私にとっては残念ではありますが、残すとなるとコストがかかりますし、大勢の人にとっては大した価値のないものでありますからね。
道標で折れた先には諏訪神社があり、その表参道が昭和の香り漂うアーケード街となっていました。
江戸だけが歴史ではありません、このような昭和テイストだって歴史です。
むしろ色々な時代の建造物が混在する方が歴史の重なりが増し、日本という国の独自性が際立ちます。
江戸だけが歴史ではありません、このような昭和テイストだって歴史です。
むしろ色々な時代の建造物が混在する方が歴史の重なりが増し、日本という国の独自性が際立ちます。
四日市駅東側にある一番街商店街。伊勢湾台風の被害と近鉄のルート変更により、旧路線上に作られたのがこのアーケード街である。美味しそうな飲食店が建ち並んでいた。
四日市市のキャラクター・こにゅうどうくん。可愛いけど妖怪。
日永一里塚跡
四日市宿を抜けてしばらく進むと日永一里塚跡に辿り着きますが、ここは一度スルーしてしまいました。
というのもこの石碑が建物に隠れていたので見落としてしまったんですね。
もう少し前に立ててくれてあれば気づきやすいのですが。
というのもこの石碑が建物に隠れていたので見落としてしまったんですね。
もう少し前に立ててくれてあれば気づきやすいのですが。
日永の一里塚後の南側にある「名残の一本松」。遠くからでも目立つこの松の木を日永の一里塚だと思い込んでしまった。
日永の追分。ここで東海道と伊勢街道が分岐している。この鳥居も伊勢の神宮のものである。
杖衝坂
日永の追分から南西に向かって、国道25号と内部川をまたいだ先に突如として坂道が現れます。
思い返せば宮宿の手前、呼続あたりから坂らしい坂はありませんでした。
これほど坂が少ないというのもすごいことですね。
思い返せば宮宿の手前、呼続あたりから坂らしい坂はありませんでした。
これほど坂が少ないというのもすごいことですね。
杖衝坂という名称がこの坂のきつさを表している。斜度は10°くらいあって確かにきつい傾斜だったが距離は短く、掛川の日坂と比べれば大したことはない。
采女一里塚跡
杖衝坂を登った小高い丘のところに采女一里塚跡がある。
采女一里塚跡を過ぎ、国道25号との合流を繰り返しながら進んでいくと、次の宿場町・石薬師宿の入り口に辿り着きました。
左側が国道25号、右の登り坂が旧東海道で石薬師宿の入り口である。
44番目・石薬師宿
歌川広重 東海道五十三次之内 石薬師 石薬師時
浮世絵にある山門はおそらくこれを絵はいたものであろう。
石薬師宿はこの石薬師寺が先にあり、この寺の名前が宿場の名称になりました。
そして石薬師寺もその名の通り、薬師如来の石仏が安置されていることからその名が付きました。
そして石薬師寺もその名の通り、薬師如来の石仏が安置されていることからその名が付きました。
現在この地域の中核は東側にある鈴鹿市街です。
通りは寂しい感じでしたが、おかげで宿場町としての面影を残している、とも言えます。
石薬師宿小澤本陣跡。
石薬師一里塚跡
石薬師宿から庄野宿までは非常に分かりやすい道案内があって迷うことなく走ることができた。
45番目・庄野宿
歌川広重 東海道五十三次之内 庄野 白雨
石薬師宿と庄野宿は御油〜赤坂間の16丁に次ぐ27丁(約3km)という近さです。こちらも石薬師宿と同様、鈴鹿川によって現在の鈴鹿中心市街地と分断されているので静かな街並みでした。
庄野宿の街並み
庄野宿資料館
庄野宿本陣跡
庄野宿西口(京口)跡
四日市宿からの石薬師宿と庄野宿は自転車だとただ通過するだけの宿場町となってしまいました。
できれば石薬師寺の中を見学したり、庄野宿の資料館をみたりすれば良かったのですが、この日は移動距離も比較的長くなる予想だったのと膝が痛くなってきたので早くホテルに行きたかったという事情があり、先を急ぎました。
できれば石薬師寺の中を見学したり、庄野宿の資料館をみたりすれば良かったのですが、この日は移動距離も比較的長くなる予想だったのと膝が痛くなってきたので早くホテルに行きたかったという事情があり、先を急ぎました。
次は2日目のゴール地点である亀山宿になります。
それでは皆さん、Have a nice day !