岩村城跡(岐阜県恵那市)

 当サイトにはプロモーション、広告が含まれます

f:id:i_like_mcc:20211215001036j:plain

岩村城(別名 霧ヶ城)とは

概要

日本百名城

財団法人日本城郭協会が2006年に定めた100の城郭の1つとして数えられている。岐阜県では岐阜城と岩村城の2城が認定されている。

日本三大山城

海抜717mと日本一高いところに築かれた岩村城。天守閣が残存する城で最も標高が高いところにある「備中松山城(岡山県)」、麓と本丸の標高差(比高)が最も大きい「大和高取城(奈良県)」とあわせて日本三大山城と呼ばれている。

岩村城の歴史

鎌倉幕府征夷大将軍・源頼朝の重臣加藤景廉の子・遠山景朝によって1221年(承久3年)に築かれた。その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。
1572年(元亀3年)に武田氏家臣の伊那郡代・秋山虎繁の手によって落城、遠山氏は降伏した。しかし1575(天正3年)に長篠の戦いで武田氏は大敗をきっかけに織田氏との力関係は逆転し、織田信長の嫡男・信忠を総大将として岩村城を攻略、城主として河尻秀隆が入った。その後の豊臣政権下において城主が森氏、田丸氏と変わった。森氏が治めていた頃に城の改修が行われ、現在の形に完成した。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いにおいて大坂城番として西軍についた田丸氏は改易され、松平家乗が入った。一旦丹羽氏が城主となった期間があったがお家騒動で移封となった後、再び大給松平氏の居城となり幕末まで続いた。

岩村城にまつわる話

霧ヶ城伝説

岩村城には17もの井戸があり、籠城の際にも水に困ることがなかった。中でも八幡曲輪にある霧ヶ井は城主専用の霊泉で、敵が攻めてきた時に場内秘蔵の大蛇の骨を投じると霧が城を覆い守ったと「巌邑府誌」に記されている。ゆえに岩村城は別名を「霧ヶ城」と呼ばれている。

f:id:i_like_mcc:20211213193800j:plain

【霧ヶ井、大蛇の骨を投じると・・・】
「おんな城主」の悲哀な運命

甲信の武田、濃尾の織田の緩衝地帯である東美濃で岩村城主の遠山氏は両家に接近して縁戚関係を結び、また武田・織田の外交関係を介する役割を担っていた。その関係において遠山景任の正室として嫁いだのが織田信長の叔母おつやの方であった。

後継がいない遠山景任が病死したのち、東濃地方の支配を強めようとした織田信長は五男の御坊丸(勝長)を養子として継がせた。御坊丸は幼少であり、後見人のおつやの方が実質な城主として領地を治めていた。

1572年(元亀3年)に武田信玄に命じられた伊那郡代・秋山虎繁の軍勢が東濃へ侵攻した。おつやの方自ら采配を振るい、織田信長の援軍を待って籠城作戦に打って出た。しかし長島一向一揆をはじめ各地で争っていた織田家は東濃へ兵を派遣できずにいた。難攻不落の岩村城は陥落しなかったが武田軍に城下町を焼かれるなど領民への被害は広がった。そこで秋山虎繁は家臣領民の命と引き換えに城を明け渡すこと、おつやの方は自身の妻となることを提案した。おつやの方は領民と家臣を守るためにその条件を飲み、城を明け渡した。御坊丸は甲斐の武田信玄のもとへ人質として送られた。

1575年(天正3年)、長篠の戦いで武田勝頼が大敗したことで武田家と織田家の勢力が逆転した。これ好機とばかりに織田信長は嫡男・信忠を総大将として岩村城攻略を命じた。この時も堅牢な岩村城は半年ほど持ち堪え武田勝頼の助けを待ったが援軍は来ず、食糧も尽きはじめた。領民を守り、秋山虎繁とおつやの方を助命するという織田信長の条件を飲んで開城したが、その約束は反故にされ秋山虎繁とおつやの方は磔刑に処せられた。

岩村城跡の見所を実際に散策して紹介

手っ取り早く本丸跡周辺をみたい人は国道418号の脇道から本丸跡近くの駐車場に停めると良い。しかしせっかく来たのであれば城下町から本丸跡へと登るルートがおすすめ。岩村歴史資料館の駐車場にクルマを停めて登城口から散策した。

f:id:i_like_mcc:20211213185044j:plain

【岩村城の全体図】

f:id:i_like_mcc:20211213185205j:plain

【登城口から本丸まで標高差140m】
初門(はつもん)

直線的に伸びる登城坂でこの部分だけが行く手を遮るように鉤の手に大きく曲げられている。有事の際にはここに臨時の門を構えて通行を遮断するようになっていたため「初門」と呼んだという。岩村城の最初の関門である。

f:id:i_like_mcc:20211213185649j:plain

【通りがZ字のように折れ曲がり行手を阻む】
一之門(いちのもん)

二層の櫓門で大手一の門とも呼ばれる。城に向かって左側には単層の多門櫓が構えられ、右側の石垣上も土塀で厳重に固められていた。前面左側には石塁が張り出しており、死角から敵が近づかないように工夫されている。内側には番所が置かれていた。

f:id:i_like_mcc:20211213191023j:plain

【一之門はこの先にあったと思われる】

f:id:i_like_mcc:20211213191809p:plain

【一之門のCG画像】
土岐門(ときもん)

岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したという伝承からこの名がついた。廃城後に徳祥寺山門として移築され現存している。

f:id:i_like_mcc:20211213190757j:plain

f:id:i_like_mcc:20211213192806p:plain

【土岐門のCG画像】

f:id:i_like_mcc:20211213192859j:plain

【徳祥寺に現存している土岐門】
畳橋(たたみばし)

大手の入口は高石垣と桝形門、三重櫓によって厳重に固められており、前面の空堀にL字型に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていた。床板を畳のようにめくることができたことから、畳橋と呼ばれたという。

f:id:i_like_mcc:20211213193552p:plain

【畳橋のCG画像 ※写真撮り忘れた・・・】
六段壁(ろくだんへき)

本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の見事な石垣である。元は最上部のみの高石垣であったが、崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿となった。

f:id:i_like_mcc:20211211214709j:plain

【岩村城跡一番の見どころ六段壁、見事!】
長局埋門(ながつぼねうずみもん)

両側の石垣の上に多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門。門の内側の細長い曲輪は長局と呼ばれている。入って左手の本丸に入る桝形状の通路は東口門で、本丸の正門である。前面の一段低い曲輪は東曲輪で、本丸の外桝的機能を持っている。

f:id:i_like_mcc:20211213195054j:plain

【この石垣の上に櫓があり、その下に埋門があった】

f:id:i_like_mcc:20211213195420p:plain

【東曲輪と櫓門、右上段が長局櫓門】
本丸

本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が石垣上に構えられていた。東と北には一段低い位置に長局と呼ばれる細長い曲輪が付属する。正門は東曲輪側の東口門である。内部には施設はなく、広場となっていた。

f:id:i_like_mcc:20211213200017j:plain

【標高717m、日本最高所の本丸】

f:id:i_like_mcc:20211213200201j:plain

【本丸から眺める御嶽山】

岩村城はこのように石垣をはじめとした遺構がよく残っていて見応えがある。それぞれの説明看板のQRコードを読み取るとCG画像で建造物のイメージを見ることができるのも楽しい。
標高差140mだが見どころも多く、立ち止まりながら登るのでさほど大変さは感じなかった。しかし夏場であれば大汗をかくだろう。恵那、中津川は栗が有名で秋には「栗きんとん」をはじめとした栗菓子が出回るため、秋〜初冬にかけてがベストシーズンだろう。積雪、降雨後は滑って転倒しないよう注意が必要である。

岩村城跡へのアクセス

所在地
〒509-7403 岐阜県恵那市岩村町字城山

電話番号
0573-43-3231(恵那市観光協会岩村支部)

URL
http://onna-jyoushu.iwamura.jp/

駐車場
本丸跡南側の出丸駐車場に停められるが道が細いため要注意。大型車は登城口近くの岩村歴史資料館の駐車場に停めた方がよい。どちらも24時間開いていて無料。