2023年夏の旅行は福島県⑧ 磐越西線に乗って会津若松市街へ〜会津若松城〜【通算117泊目】

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皆さんこんにちは、シンです。

2023年夏旅行その8、5日目の様子です。

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磐梯山が見えず

朝には磐梯山見えるかな?と期待して寝たのですが結果は山頂見えず。

残念。

【このあたりは雲が出やすいのかな?】

朝食は前日に道の駅で購入した「会津地鶏釜めし」です。

夜のうちに炊飯器にセットして予約炊飯、朝から車内は釜めしの香りで食欲をそそります。

美味しかったですが肝心の鶏肉は少なめ?

でもこんな商品は各地に結構ありますので、出先の道の駅で購入して旅行中に食べる、と言うのも悪くないな、と思いました。

【1.5合分が2袋入っています】

【炊きあがり、これを混ぜ混ぜ】

クルマ旅中のプチ電車旅

さてこの日は会津若松観光です。

市内観光ではただでさえ駐車場探しに難渋するキャンピングカー。

それが背面キャリアに自転車を積んでると更に難易度が上がります。

旅行計画を立てている時、道の駅から猪苗代駅が近いことに気づきました。

「道の駅から自転車で駅に行って、電車とバスで市内観光すれば楽じゃないかな?」

幸い会津若松市内は観光バスが周遊していて、1日¥600で乗り放題です。

クルマ旅の最中に自転車でも電車でもバスでも、違う乗り物での移動を入れるのって何か好きです。

はい、だから自転車用のチェーンロックを新調したんです。

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電車の到着時刻を調べたら案外と余裕がないことが判明し、釜めしを掻っ込んで出発!

自分の生活圏外で自転車に乗るのっていつも新鮮な気分になります。

【息子はもう普通に自転車乗れます】

猪苗代駅から会津若松駅へ

心配していたのですが駅の近くにはちゃんと屋根付きの駐輪場がありました。

できれば駅情報に駐車場や駐輪場の情報を載せておいてくれるとありがたいですね。

【ああ良かった】

【ちゃんとロック!】

猪苗代駅はそれほど大きな駅ではありません。

でも良い佇まいです。

【明治ですか】

野口英世が上京したのが明治29年ですから、当時はまだこの駅はありませんでした。

でもその3年後には駅ができたので、野口英世もこの鉄道には乗ったのでしょうね。

でこの磐越西線は前身を岩越鉄道と言うそうで、Wikipediaで調べると代表取締役会長には「渋沢栄一」の名が。

ホントこの時代開業の会社には渋沢栄一が絡んでいるな、と感じます。

今より貧しい日本でしたが、鉄道網が整備されるなど急速な近代化が進められたこの時代、きっと希望と活気に満ち溢れていたのでしょう。

【汽車を待つ君の横で僕は〜】

【ピントを気にしてる、ほらズレた】

車窓から磐梯山が見られたら最高だったのに、やっぱり雲に隠れて見えません。

せっかくなのでマイボトルにホットコーヒーを入れてきました。

【お気に入りボトルです】

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この日はとかく暑かったので、夕方になってようやく飲み頃の温度でした。

保温能力は優秀です。

会津若松の駅はさすがに大きな駅でした。

駅舎の屋根には会津若松城のような赤い瓦、赤べこに白虎隊、会津が凝縮していました。

【会津らしさが詰まっています】

この赤べこ(あかべえと言う名前)、ボタンを押すとしゃべって会津音頭を歌います。

子供たちがめちゃくちゃ気に入って、この日から赤べこ好きになりました。

私も昔は何とも思っていませんでしたが、見るたびに赤べこの魅力にハマっていきます。

【何とも言えないかわいさがあります】

そして観光周遊バスの到着。

会津若松市内を右回り、左回りで運行しているので、意外と待ち時間短く乗ることができます。

【オシャレなのと普通のが走ってます】

まずはシンボル・会津若松城へ

暑くなる前に会津若松城に向かいました。

会津若松城、別名を鶴ヶ城と言います。

この城、戦国時代にこの地を治めていた蘆名氏時代には黒川城でした。

そして1年の伊達氏支配の後に秀吉にこの地を任されたのが蒲生氏郷でした。

その蒲生氏郷の幼少名が「鶴千代」、そして蒲生の家紋に鶴が描かれていることから「鶴ヶ城」と呼ぶようにしたんだとか。

また当時黒川という地名を若松に改名したのも蒲生氏郷です。

今では会津若松市にある城なので「会津若松城」ですが、それまでは単に「若松城」の呼び名でした。

【赤い瓦が特徴的です】

【この鶴の字、キレイです】

そして蒲生氏、上杉氏支配の後にこの地を任されたのが保科正之、前々回のねぎそばで書いたお殿様です。

保科正之は2代将軍・徳川秀忠の子でしたが、正室の子ではなかったため信州・高遠の保科氏の元で養育されました。

当初弟の存在を知らなかった三代将軍・家光がその存在を知ることとなり、それからは家光に気に入られて重用され、そして会津藩23万石を任せられる大大名となりました。

松平姓を名乗ることを進められていましたが正之は断固拒否、その理由は養育してくれた保科氏への恩義でした。

また家光最期の折に、将軍宗家をしっかり守ってくれ、と嘆願されました。

その後正之は「会津家訓十五ヶ条」を定め、第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記されています。

その教えが幕末まで守られ、そして戊辰戦争でもその精神はしっかりと受け継がれていました。

保科正之、そして会津藩の忠義の厚さはただただ尊敬するばかりです。

大河ドラマ・八重の桜、見てなかったのですが見とけばよかったな、と後悔してます。

【綾瀬はるかが着用していた衣装】

鶴ヶ城天守閣の最上階は会津若松市街が360°見渡せます。

この方角が飯盛山方面。

【中央やや左のあたりが多分そう】

飯盛山は白虎隊悲劇の場所ですね。

そちらの話は次回にします。

それでは皆さん、Have a nice day !