皆さんこんにちは、シンです。
1月12日に行った東海道ポタリング記事その3です。
前回の記事はこちら。
36番目・赤坂宿
赤坂宿に着くやいなや、おじさんが寄ってきて「ボランティアガイドやっとります、お話しする時間はありますでしょうか?」と声をかけてきてくれました。
とりあえず広重の赤坂祝の絵の舞台となった場所がどこか聞いたら、ここです、と案内されたのが上の写真の場所でした。
これ教えてもらわなければ分からなかったのでとても助かりました。
絵の中央にあるのはソテツで、写真のソテツの位置になります。
絵の男性が立っている縁側が、今は建物がありませんが自転車の後ろあたりになります。
この絵が意味するところをボランティアガイドのおじさんが教えてくれました。
右側に描かれている女性は遊女で、ここ赤坂宿と御油宿は遊郭として栄えていたそうです。
今で言う風俗街ですね。
そして赤坂宿と御油宿は宿間が1.7kmしか離れていない、東海道の中で一番近距離の宿場町でした。
そうなると当然客の取り合いになるわけです。
で、赤坂宿は絵のように遊女で誘い込む作戦に出て、それが今風に言えば大バズり。
旅人の間で評判となり、
「おい、赤坂ヤベえぜwww」
「え?ウソやん。じゃあ今度行く時は俺も赤坂に泊まるわ」
と言う会話があったとかなかったとか。
縁側で肩を出している男性は風呂上がりで、これから楽しみなことが待っている人です。
「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」と詠われた意味はそう言うことです。
もう古今東西みんなスケベなんだから笑
この大橋屋、2015年まで宿屋として営業していたそうです。
先ほどのソテツは植え替えられたもので、絵にあるソテツは近くのお寺に移植されているみたいです。
35番目・御油宿
赤坂宿と比べるとこちらはひっそりとしています。
しかし辺り一帯、めちゃくちゃいい香りがします。
と言うのも醤油・味噌を製造しているイチビキの第一工場がここにあります。
イチビキって名古屋の会社だと思ったら、元々の創業はこちらだったんですね。
さて広重の描いた御油宿の絵ですが、先ほどのボランティアおじさんの話を聞いた後に見ると非常に面白い絵だったんだと言うことに気付かされます。
江戸から京へ向かう旅人はこのすぐ隣の赤坂でムフフなことをしたいんですよ。
しかし御油宿も商売なので赤坂に行かせまいと強引に客引きをする訳です。
それがこの絵の意味です。
絵の解像度が悪くて見づらいですが、絵の中央で男性を掴まえて離さない女性と必死の形相の男性が描かれています。
そんな御油宿と赤坂宿の間にはとても美しい松並木があり、国の天然記念物に指定されている貴重な文化財であります。
そんな賑わいがあった赤坂、御油ですが、今では国道1号が通るもののお世辞にも賑わいがある町とは言えません。
峠の勾配を嫌って国鉄が豊橋ー岡崎間のルートを蒲郡側にしたんですね。
国鉄がここを通していたら、この町の賑わい方が違ったかもしれません。
そして名古屋ー豊橋の最短ルートを名鉄に奪われることなく、愛知県内でのJRの地位が脅かされることもなかったのかも。
もっと言えば岡崎駅も今の名鉄の東岡崎駅のあたりに作られ、そこに新幹線の駅も作られたはず(三河安城は消滅)。
岡崎市の中心市街地の景観は全く違うものになっていたでしょうね、残念。
御油宿から吉田宿まで
御油宿から吉田宿までの間に御油、伊奈、下地の一里塚があるのですが、御油と伊奈の一里塚を見落としてしまい写真に収めることができませんでした。
ついでに言うと赤坂の西側の長沢の一里塚も。
この辺はもう一度行かないといけません。
遊女探しならぬ一里塚探しです。
でちゃんと写真に収めることができた下地一里塚跡。
34番目・吉田宿
この絵に対応する写真はドローンがないと無理ですね。
そしてこの吉田城のすぐ近くに豊橋警察署があります。
そんなところでドローン飛ばしたら・・・ダメですよ!
絵の位置関係から見ると架かっている橋は現在の吉田大橋(国道1号)かな、と思いましたが実際はその西隣の豊橋(とよばし)です。
愛媛にも同名の吉田藩があったので明治政府から改名の指示があったため、この橋の名前がそのまま使われて豊橋藩、そして豊橋市になりました。
この吉田宿も大いに賑わっていたそうです(遊女もいますからね)。
今では周辺の木々に高さも抜かれて地味な印象の吉田城ですが、城主は岡崎城や浜松城と同じく譜代大名が治め、幕府要職に就くエリート達でした。
知らんかったなぁ。
そしてその吉田城の小さな天守閣に見えてたもの、あれ実は櫓だったんですよね。
櫓が(ちょっと小さな)天守閣サイズってことは吉田城の本当の天守閣は相当大きかったのだと思い、それならばエリートのお城と言っても頷けます。
そんな大きな吉田城はやはり総構えでその範囲も広大でした。
西総門あとは見逃しましたが東総門跡は写真に収めました。
吉田宿から二川宿まで
吉田宿から二川宿の間に飯村一里塚がひとつだけあります。
ここまで見逃し率が高かったですが、ここだけは見逃しようがありません。
だって目印が分かりやすいですから。
モンベル豊橋店の真ん前でした。
いつもこのモンベルの前の道ってなんであるんだろう?潰せばいいのに。
と思っていたのですがその道が東海道だったんです、そりゃ潰せませんよね。
そしてそのモンベルの横にはマクドナルド。
ちょうど昼食時だったのでここで昼休憩。
一里塚のあるところで休む、これも東海道旅の醍醐味、ですかね。
ここから二川宿までは国道1号の脇道が東海道になります。
よく行くガーデニング屋さんの前の道が東海道だったなんてことも知りませんでしたねぇ。
33番目・二川宿
赤坂、御油、吉田と楽しそうな宿場町の光景から一転、二川はめちゃくちゃ寂れて哀愁漂う描かれ方です。
でも個人的にはその哀愁感は私も幼い頃から感じていました。
と言うのも私の母方の祖母が二川に住んでいて、その当時私は名古屋市の隣の長久手に住んでいました。
(ほぼ名古屋市の)長久手から見れば二川というのは静岡県との境の町で都会の名古屋から一番離れている場所です。
その向こうは愛知県より田舎(失礼)な静岡県。
だから私にとっての二川というのも心の中の印象ではこんな感じです。
それでも愛知県内で私が行った宿場町において、東海道の昔ながらの面影を残そうと一番努力しているのがここ二川かな(城下町を除いて)。
赤坂、御油と違って二川の強みはJRが通っていて、駅のすぐ近くだと言うことです。
電車旅で立ち寄りやすいのはいいと思います。
赤坂、御油は名鉄に乗り換えれば電車旅でも立ち寄れますが、若干駅から離れているかな?と感じます。
ここから次の白須賀宿の間に三河と遠江の国境があるところを通ります。
と言ったところで次回へ続きます。
それでは皆さん、Have a nice day !